高度化した情報社会を支える半導体の重要性がこれまで以上に高まる一方で、日本では半導体のアーキテクチャー開発を担うことが可能な人材は著しい不足が予想されています。半導体のアーキテクチャー開発は半導体を搭載する機器やシステムの性能、コストを決定する極めて重要な活動です。しかし現在、半導体のアーキテクチャー開発の人材の不足が懸念され、学術機関、政府機関がその教育に積極的に乗り出そうとしています。それらに先立ち、筆者はゲーミフィケーションを応用して半導体の要件開発からアーキテクチャー開発に至る一連の開発・設計活動を実践的に学ぶ教育プログラム「The Game」を考案しました。「The Game」は2024年10月17日の発表から8ヶ月の期間で25の企業や大学、地方自治体や政府機関の方々に展開してきました。
本稿では2編に分け、前編でThe Gameの実現に至る背景と考え方を、後編ではその実践の結果と考察、加えて将来への展望を述べることで近い将来に半導体のビジネスを担う人材が、そのキャリアの1歩目を踏み出す手助けになることを期待しています。
背景
半導体の微細化テクノロジーの進歩とSoC
微細化テクノロジーの進歩[1][2]によってバッテリーで動作するモバイル・デバイスの動作時間の拡大、データセンターの高性能化や温室効果ガスの削減など極めて広い領域で実感することができるでしょう。ではその高度に微細化されたテクノロジーで作られる半導体とは何でしょうか?その答えはSystem on a Chip(以下、SoC)です。SoCとは1つのチップにプロセッサー、メモリーインターフェイス、AIなどの特定の処理に特化して高速化を手助けするアクセラレーター、通信機能に代表されるInput/Output(以下、I/O)などの機能ブロックに特化した集積回路(以下、IPコア)を多数搭載し、それらをインターコネクトと呼ぶ高速な配線で相互に接続することで連携して1つのシステムとして機能させる大規模な半導体です。SoCのアーキテクチャー開発とは1つのシステムとして機能できるように、製品やサービスごとに求められる要求や機能に合わせて必要なIPコアを選択、IPコア相互をインターコネクトで接続して、実現される機能や動作速度、消費エネルギー等をシミュレーションして決定する開発プロセスです。
SoCは製品やサービスごとに専用の設計を適用することで、スマートウオッチ、スマートフォン、パーソナルコンピューター、ネットワーク機器、スマートバッテリー、メインフレーム[3]、AIアクセラレーター[4]、自動車、オートバイ、ドローン、エアコン、TV、人工衛星、航空機などに搭載されています。すなわち5GもIoTもAIも自動運転も宇宙開発でさえSoCがコンピューティング技術の中核を占めており、多種多様なSoCが現代社会の根本を支えているのです。
半導体産業の現在と近未来 〜設計人材の必要性〜
近年、日本国内では半導体の製造分野における投資が盛んに行われており[5]、北海道のRapidus社[6]や九州のTSMC社[7]が多くの注目を集めています。今後は製品やサービスごとに専用の設計を適用したSoCが半導体の製造工場の生産ラインで大量に生産されることが必要となることから、次の段階としてSoCのアーキテクチャー開発や設計の産業としての拡充の提言がなされています[8][9]。他方で不足していると言われる開発や設計人材の育成が急務と考えられています [10]。
半導体の開発と製造に必要となるコンピテンシー
半導体はアーキテクチャー開発や設計に限らず、その開発から製造に至るまで極めて巨大な知的集約型かつ水平分業型の産業です(図1)。開発から製造までのそれぞれのプロセスにおいて求められる理学と工学の知識領域は極めて幅広く、かつそれぞれが高い専門性を必要とします。更に半導体の微細化技術のSoCへの適用は1974年にIBMのロバート・デナードによって示されたスケーリング則[11]に従うように急激な回路規模の拡大、動作速度の高速化と高いエネルギー効率を実現しました。その実現のためには回路規模の拡大、高速化、高いエネルギー効率はそれぞれのプロセスにおける開発や設計規模の大規模化への対応、高度な材料や繊細な化学プロセス、回路構造の研究開発とその急速な実用化が必要になり、半導体の開発と製造に携わる技術者や研究者に必要となるコンピテンシーは年を追う毎に専門性が深まり、一人ひとりが保有するその知識領域は徐々に狭まっています[12]。
図1. 知的集約型の半導体産業
浮き彫りになった課題
SoCの開発と製造フロー 〜半導体の特殊性〜
半導体のビジネス戦略の立案から量産のプロセス・フローには、システムインテグレーション(SI)やサービスビジネスでのソフトウェア開発やシステム構築との類似性を見ることができます。すなわち、ビジネス戦略から要求解析、アーキテクチャー開発へと段階的に詳細化・具体化され、最後は出来上がった半導体の検証で一連のプロセスが終了します。ただし半導体の場合は、この一連のプロセス・フローは巨大な知識集約型であり、更にグローバルに多くの企業による水平分業で成り立ち、開発に携わる人材にはそれぞれの分野での高度な専門性を必要とすることから、個々のプロセスのエンジニアや研究者はその全体像を把握することが難しくなっていることは前述の通りです。
これからの半導体人材に求められる知識 〜全体像の大切さ〜
巨大な知識集約型の水平分業で成り立つ半導体産業、加えて今後の日本において半導体産業を発展させて行くためには個別の技術領域の知識や経験はとても重要です。しかしその前に考えなくてはならないのは「誰が半導体産業を発展させる起点となるのか?」です。その答えは投資家もしくは企業のビジネス戦略の担当者、半導体の設計や製造技術の研究者、研究結果を活用して新たな半導体を作り出していく技術者です。投資家や企業のビジネス戦略の担当者の決断が無ければ誰も半導体産業に投資することは無いので、彼ら彼女らの半導体産業への関与と知識の充実は重要と考えるべきでしょう。ここで投資家や企業のビジネス戦略の担当者にまず必要なのは半導体産業の技術の詳細よりも全体像です。また,半導体の個別のプロセスのエンジニアや研究者は半導体産業の全体像を把握することが難しくなったため全体の中における自身の貢献領域が見えにくくなっています。これらの考察から、現在の半導体産業において最も必要と思われるのは,発展の起点となる人々が半導体産業の全体像を把握することだと考えました。
アカデミアとの連携 〜誰もやって無いところに何かあるハズ〜
半導体産業の全体像を把握するとなるとまず書籍がその第一候補と考えられます。S.M.ジィーの「半導体デバイス―基礎理論とプロセス技術」[13]は電子工学を基礎として半導体の基礎と応用理論ならびに製造技術を学ぶ良書であり、ヘネシー&パターソンの「コンピュータアーキテクチャ 定量的アプローチ」[14]はSoCのアーキテクチャー開発に携わるエンジニアであれば必読の書と言われるほど有名です。しかしながら、半導体産業の全体像を把握する目的としてはいずれも専門的で、理解するためには多くの背景知識を必要とすることからその目的に合いません。加えて半導体産業の全体像を考えた時、膨大な量と種類の書籍や論文、大学でのカリキュラムは既に存在していることから、不足している部分をまず補う必要があると考えました。
そこで既に大学でのカリキュラム等が存在する領域はそのままに、まだカリキュラムや書籍が充実していない領域を探索してみました。それは大規模な半導体の開発における上流、すなわちSoC開発における要求開発・要件定義からアーキテクチャー開発に至るプロセスでした。この探索には北九州市立大学の教授陣による半導体教育カリキュラムの調査ならびにIBMメンバーとの議論が大きな役割を果たしました。ここでの大きな発見はSoC開発における要求解析・要件定義からアーキテクチャー開発のプロセスは抽象度が高いことから半導体産業の全体像を把握することにとても適していることを認識出来たことです。しかしながら広範囲な専門知識が求められることには代わり無いのです[15] 。
解決に向けて 〜専門性と従来の常識に挑む〜
狙いは8時間 〜「積み上げ型」からの脱却〜
電子工学や物理学、化学、数学、プログラミング等の専門的な知識が無ければ要求解析・要件定義からアーキテクチャー開発を業務で遂行することは困難です。筆者の経験上、それらの業務にあたる「アーキテクト」は広範囲な職務を広く経験することを通して知識とスキルを獲得する積み上げ型が一般的であるため、その育成には5年から10年を要しています。知識だけを対象とした場合でも積み上げ型では膨大な時間を要してしまうことは想像に難くありません。加えて育成の対象者に投資家もしくは企業のビジネス戦略の担当者を含めていることには大きな制約が伴います。専門家ではない方が半導体産業の全体像を把握することを目的とするならば3時間、長くても8時間がその目的に使える時間の限界と我々は考えました。まずは8時間を目標にカリキュラムを考えました。
知識レベルの設定 〜門戸の開放〜
半導体の人材育成について議論すると多くの方々から「対象は理系の大学院生ですか?」と質問を受けました。その質問に対する筆者の答えは、「中学校2年生です。」
文系と理系の別れ道は早い人であれば高校受験、中学校3年生です[16]。つまり世の中の文系と呼ばれる人たちは中学校2年生までしか理系の教育を受けていない可能性があります。投資家や企業のビジネス戦略の担当者にはその文系の人たちが多く含まれるでしょう。つまり理系の知識が必要と考えられる半導体産業の全体像を把握する対象の人たちが、中学校2年生以降は理系の教育を受けていない可能性を排除してはいけないのです。すなわち中学校2年生が理解できる内容であることが必須の要件としました。
突き詰めてみた 〜箱庭ゲームと授業を最短ループで〜
半導体の人材育成における目的と題材、制約を以下のように明らかにすることができました。しかしながらこれらを全て成立させることは難しく、何らかのブレークスルーが必要であることは誰の目にも明らかです。
- 目的:半導体産業の全体像を把握する
- 題材:SoC開発における要求開発・要件定義からアーキテクチャー開発
- 制約:半導体の専門知識を求めてはいけない・時間は8時間・対象者は中学校2年生
まず半導体産業の全体像においてはその対象を「要求解析・要件定義からアーキテクチャー開発」と設定しました。その理由はゼロから半導体が生み出され,その骨格全体を作り出す段階であるからです。題材はSoCですがそのSoCを搭載する製品を決めないと要求開発・要件定義は叶いませんので、スマート・スピーカーやドローン、店舗の注文端末等から選択する形式を考えました。しかしアーキテクチャー開発に関しては解が無い状態です。半導体の専門用語は可能な限り平易な内容とする、アルファベット3文字のCPUやRAMやROMなどは比喩に置き換えます。これらを8時間で実現するために筆者らが考えたのがシムシティ[17]、マインクラフト[18]や、あつまれどうぶつの森[19]などのプレイヤーが小さな仮想空間で自由にアイテムやキャラクターを配置・操作し、自分だけの世界を作り上げていくゲーム・ジャンルである「箱庭ゲーム」[20]をSoCのアーキテクチャー開発に適用することです。SoCのアーキテクチャー開発は、極めて単純化すると複数の機能部品であるIPコアをデータの流通路であるインターコネクトで接続することになります。箱庭ゲームのシムシティで例えるとIPコアに相当する建物を配置して、インターコネクトに相当する鉄道や道路でそれらをつないでいくことに視覚上も遂行上も強い類似性があります。であるならば専門知識が無くてもSoCのアーキテクチャー開発を単純化したゲームをハンズオンの教材、すなわちオフラインの対面型で実際に手を動かして体験しながら学ぶための教材にできそうです。
ここでハンズオンの教材としてゲームを活用すると考えた場合、8時間の受講時間を可能な限り有効に活用する必要があります。オンラインまたはオフラインでパソコンやスマホを利用する事も考えましたが以下の理由で採用を見送り、カードを使うこととしました。
- オンラインでは、オフラインで対面型と比較してチームで議論しながらハンズオンを進めるスピードに劣り、コミュニケーションも少ない。これは受講時間が長くなり、チームの独創性が発揮されにくいことが予想される
- カードであればツールやデバイス利用の習得やインストールの時間が要らない。受講者の条件は中学校の2年生以上であることから、パソコン・スマホを利用する場合はツールやデバイスの利用における習得やインストールのサポートは必須であり、講義の中断による受講時間の必要のない消費が起きる可能性が高い
- カードを使ったゲームであれば、SoCのアーキテクチャー開発以外にも開発コストや性能のトレードオフ、突発的な業務上の問題の発生をゲーム上のイベントとして、その発生タイミングを柔軟に設定できることからゲーム体験の印象を受講者に強く残せる可能性が高い
- SoCのアーキテクチャー開発で最も重要な技術的視点の1つはインターコネクトの選定とその構成にあるが、講義内容でそれを座学として示すのではなく、ゲームでチャレンジする課題として明示的に設定できる
これらは北九州市立大学の教授陣による教育工学[21]の豊かな知見と、長年に渡る教育の実務経験から強い影響を受けています。さらに一般的な講義とは異なり、座学では無くハンズオンを中心に設計セミナー全体を構成しました。講義とハンズオンを短時間で繰り返しその場でリアルタイムに議論しながらSoCのアーキテクチャーを変更していくのです。このハンズオンは実際のチーム編成による開発業務としてのSoC開発プロセスのミニチュア版のように進行、講義はハンズオンをサポートするために行われます(図2)。一般的な大学等での講義・実習の関係とは逆の考え方であり、北九州市立大学の教授陣からは「アカデミアでは絶対に出てこない発想だ」とコメントを頂いています。
図2. 実際のSoC設計・製造フローと講義・ハンズオンの対応
そのハンズオンを中心とした講義を8時間で納めるために行った最も重要なことは8時間を全て「設計」することでした。トライアル版のカードを自作して、ハンズオンの内容を決めてからゲームを試行して講義の内容を決める。それを10分単位で区切った講義のタイムテーブル(図3)を作成しながら全体の整合を取り、これらを何度も繰り返してセミナー全体を設計しました。関係各位の協力と連携、緻密な設計が有って実現できたと考えています。
図3. 講義のタイムテーブル
そして我々はこのハンズオンを中心とした新しい半導体教育プログラムを「The Game」と名付けました。
参考文献
[3] 次世代IBM Zメインフレーム・システム上でAIを加速させる、IBMの新しいプロセッサー・イノベーション
[9] JEITA 半導体部会 政策提言 国際競争力強化を実現するための半導体戦略,