SAP社のERPシステム「SAP ERP 6.0」の標準サポート終了が間近に迫り、S/4HANA導入に代表される基幹システムの刷新は多くの企業で加速しています。しかし、深刻な人材不足の中で、現場の負荷はかつてないほど高まっています 。こうした状況に対し、生成AIを活用して作業を支援し、品質とスピードを両立する新たなプロジェクト運営が始まっています。また、これらの取り組みは基幹システム刷新・導入プロジェクトにおいて、幅広いシステム変革を通じて人とAIが共に成長する新しい働き方を実現します。本稿では、需要が多く、最も適応が進んでいるS/4HANA導入におけるAI活用の実践と新しい働き方を紹介します。
2027年の崖を前に、人とAIが共に進化するプロジェクトへ
SAP社のERPシステム「SAP ERP 6.0」の標準サポート終了を前に、SAP S/4HANA(以下、S/4HANA)への移行が急速に進んでいます。導入案件の増加に対して人材は慢性的に不足しており、多くの企業が「デリバリーをいかに効率化するか」「経験の浅いメンバーをいかに短期間で戦力化するか」という課題に直面しています。
この構造的な問題に対し、生成AIの活用が注目を集めています。目的は単なる省力化ではありません。生成AIは、知識や設計ノウハウを即座に提供する「教育の加速装置」 として機能します。経験の浅いメンバーの成果物の品質を底上げし、経験豊富な エンジニアのレビュー工数を削減する。そして、経験豊富なエンジニア がより高度な設計や業務変革に集中できるようにする。人とAIがそれぞれの得意分野で補完し合うことで、これまで以上に高いスピードと品質の両立を目指しています。
また、このようなAI活用を現場で確実に定着させるため、IBMではIBM Consulting Advantage [1][2]を基盤として活用しています(図1)。これはIBMが提供する「AI活用のためのプラットフォーム」です。このプラットフォームでは、プロンプトやデータを事前に読み込み、メンバーがすぐに利用できるAIアシスタントを公開できます。プロジェクト特有の標準やノウハウをAIアシスタントに組み込み、作業の実施やガイド準拠状況のチェックを自動化することで、AIがより的確に現場を支援できる環境を整えています。
図1. IBM Consulting Advantage 概要
S/4HANA導入と生成AIの難しさ
一見すると、AIによる自動化はS/4HANA導入と相性が良いように思えますが、実際にはそう単純ではありません。S/4HANAはパッケージソフトウェアであり、ブラックボックス化されたコンポーネントを、設定や拡張開発を組み合わせて構築します。個別開発のように自由にコードを書くわけではなく、業務プロセスの再設計、他システムとの連携、テスト、データ整備など、複数の要素が密接に絡み合っています。
さらに、基幹システムである以上、堅牢性とガバナンスが強く求められます。ドキュメントの整備、ルールに沿った開発、レビューや監査対応は不可欠であり、AIが単独で担える範囲は限られています。こうした性質を理解した上で、どこにAIを使い、どこに人の判断を残すのかを慎重に見極める必要があります。
AIの得意領域を見極める:切り出しと分業の設計
S/4HANA導入で生成AIを活用する際、最も重要なのは「AIができること」と「人が担うべきこと」を丁寧に切り分けることです。AIを万能の自動化装置ではなく、人の作業を支援し、判断の土台をつくる存在として位置づける。これが現実的なアプローチです。
この設計思想のもと、AIの出力は「ドラフト」として扱われます。AIが一次成果物を生成し、人がレビューと仕上げを行う。結果として、人が直接手を動かす時間を大幅に削減できます。実際にAIを適用している領域は多岐にわたります。要件定義書やテスト仕様書のドラフト生成 、設計レビュー時の抜け漏れチェック、プログラム命名規則や標準設計方針の準拠確認、会議の議事録、課題抽出・起票支援、標準ドキュメントの自動整形・要約などです。これらは明確なルールに基づいた構造化タスクであり、AIが最も力を発揮します。一方で、AIを正しく機能させるには「コンテキスト設計」が欠かせません。ここで言う「コンテキスト設計」とは、AIが正しく判断できるように業務範囲・利用ルール・関連文書などの前提情報を定義することを指します。どの業務に関係する設定か、どのガイドラインを参照すべきかなどをAIが判断できるよう前提条件を整える必要があります。ここで重要になるのが、AI技術を理解したAIアシスタント作成チームと現場担当者との密な対話です。
AIに精通したAIアシスタント作成チームは、AIの限界や得意分野を踏まえて現場と議論し、課題の本質を見極めながら「どの作業をAIに任せ、どの部分を人が担うか」を定義します。現場の実態を知らずにAIを導入しても定着しません。AI側とS/4HANA側の双方を理解したチームが、日々の業務と生成AIをつなぐ設計をしているからこそ、現実的で持続可能な形でAIが機能しています。
生成AIの活用とは、AIを使うことそのものではありません。「AIが適切に判断できる環境を整えること」だと私たちは考えています。ルールやナレッジ、プロジェクト標準をデータとして整理し、AIに文脈を与える——この基盤づくりこそが、S/4HANA導入における真の生産性向上を支える鍵です(図2)。
次に、課題管理や設計開発・支援にAIアシスタントを活用した事例を通じて、この取り組みを具体的に紹介します。
図2. 取り組みの全体像
実践例:課題管理から始まる知の自動化
実際のプロジェクトでは、課題管理にAIを導入することで大きな成果を上げています。課題管理はプロジェクト運営の要ですが、大規模プロジェクトではガバナンスの確保が困難です。課題が集中するタイミングでは工数が逼迫し、管理が疎かになりがちです。この問題に対し、生成AIが大きな価値を発揮します。
AIを用いた課題管理では、チーム会議の議論を録音し、AIがトランスクリプトを分析して課題のドラフトを生成します。人が内容を確認・修正した後、別のAIがプロジェクト標準に基づいて内容をチェックし、課題管理表に登録します。その後の課題更新や、解決アクションが適切かの確認もAIで実施する環境を整えています。これらのAIには、過去のS/4HANA導入案件で得られた知見を整理し、コンテキストとして組み込んでいます。
この仕組みにより、課題の粒度や記載内容が統一・厳格化され、ガバナンスの保たれた管理を実現しました。AIは定性的な文書のルール遵守を得意としており、プロジェクトマネジメントと特に相性が良い領域です。管理の精度が上がるだけでなく、担当者間の認識のずれも減り、全体の進行スピードも向上しました。結果として、課題管理に必要な工数を3〜4割削減できています。
実践例:設計・開発支援への広がり
AIの活用は、パッケージ標準では対応できない機能の開発工程にも広がっています。S/4HANAで追加開発を行う際、パッケージは正規化されており、ルールをパターン化してコンテキストとして組み込むことが可能です。たとえばレポートプログラムの設計では、抽出条件、出力項目の設定、項目の並び順など、SAP ERPに固有の標準や慣例が存在します。これらをAIに学習させることで、要件に基づいてAIが初期設計案を提示し、人が修正を加えるという新しい開発スタイルを実現しています。
このスタイルにより、若手メンバーがAIを使って短時間で設計書を作成し、経験豊富な エンジニアはレビューや最終調整に集中できます。このリレー型の開発が、品質とスピードの両立を実現しました。AIが現場の経験知を補い、人が最終判断を下す。これにより、チームの生産性を確実に引き上げています。ドラフト作成時間は3〜4割削減され、レビュー指摘件数も約半分に減少しました。
定着化のポイント:AIを「使う」のではなく「プロセスに組み込む」
加えて 、定着化のためには工夫も必要です。生成AIが便利であることは誰もが理解していますが、従来のやり方を変え、現場に定着させることのハードルは依然として高く、私たちも試行錯誤を繰り返しています。そこで私たちは、AIを特別なツールではなく、日常業務の中に自然に組み込むことを意識しました。メンバーがAIを選択的に使うのではなく、業務プロセスの各所にゲートのように配置し、意識せずとも業務プロセスを実行することで、AIの支援を受けられる働き方を模索しています。こうした「AIゲート」が複数の工程に埋め込まれ、静かに機能しています。
現在、約50種類のAIアシスタントが稼働しています。課題管理、設計レビュー、ドキュメント整形、テスト項目生成など、プロジェクト運営のあらゆる場面で活用しています。AIを現場に根づかせるには、仕組みの中に埋め込むことが重要です。これが実用化に向けた最大のポイントです。
おわりに
S/4HANA導入における生成AI活用は、単なる効率化を超えた「新しい働き方の設計」です。AIが業務を代行するのではなく、人とAIが協働しながら成果を生み出しています。プロジェクト知識を構造化し、AIに引き継げる形にすることで、組織全体の生産性と品質は着実に高まっています。
この動きは、AIの知見を持つメンバーとSAP導入の現場が対話を重ね、課題を一つひとつ定義しながら進めてきた結果です。AIの力を信じ人の知を整理し 結びつける、その地道な積み重ねが 2027年の崖を越えた先の新しいプロジェクトの姿をつくり出しています。
参考文献
[1] 日本アイ・ビー・エム株式会社:IBM Consulting Advantage,https://www.ibm.com/jp-ja/consulting/advantage
[2] 日本アイ・ビー・エム株式会社:AIの実用化を加速するデジタル変革のためのAIソリューション,https://www.ibm.com/jp-ja/think/insights/ai-solutions-for-dx
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