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Technology on the cutting edge:量子優位性と誤り耐性への展望

By IBM ProVision posted 14 hours ago

  
2016年、IBMはクラウド上に量子コンピューターを公開し、量子コンピューティングの研究開発を加速しました。以来、ハードウェアは156量子ビットのHeron R2プロセッサーに進化し、ソフトウェアはQiskitを中心に進化、さらにはハイパフォーマンスコンピューター(High Performance Computer, HPC) の融合を進めており、2029年には誤り耐性型量子コンピューター(Fault-Tolerant Quantum Computer、FTQC) が提供される予定です。本記事では、IBMのハードウェアとソフトウェアの進化、さらに今後の展望について述べます。

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堀井 洋
HORII HIROSHI
日本アイ・ビー・エム株式会社
IBM Quantum Japan
統括部長
2004年に早稲田大学理工学術院を修了後、日本アイ・ビー・エム株式会社 東京基礎研究所に入所。以来、データベース、ミドルウェア、Javaなどの研究開発に従事し2011年に工学博士号を取得。2017年からはIBMの量子コンピューター用シミュレーター Qiskit-Aerの研究開発を主導し、2018年度に情報処理学会より情報処理技術研究開発賞を受賞。2024年以降は、量子コンピューターとHPC(High Performance Computer)を統合するソフトウェアの研究開発を牽引し、量子中心スーパーコンピューティング(QCSC)分野を推進。QCSC シニアマネージャー、シニア・テクニカル・スタッフ・メンバー(STSM)。

はじめに 

量子コンピューターは、従来のコンピューターでは不可能な計算を可能にし、私たちの生活を劇的に変える可能性を秘めています。例えば、複雑な分子シミュレーションを通じて、画期的な新薬の開発が加速し、難病の治療法が見つかるかもしれません。また、複雑な最適化問題を解くことで、これまでできなかった金融市場のリスク分析が高度化し、より精緻なリスク管理が可能になるでしょう 。

量子コンピューターは古典コンピューター(一般のコンピューター)が得意とする日常的な数値計算やデータ処理には向いていません。むしろ、大規模な行列計算を伴うような科学的な問題を解くことに適しています。これらの計算を実際に役立つアプリケーションへ展開していくことが、量子コンピューターの技術的な難しさであるとともに、研究開発の醍醐味でもあります。

現在の量子コンピューターは、計算中にエラーが発生することが避けられません。このエラーをいかに対処していくかが、量子コンピューターの有効利用の鍵にもなっています。エラー緩和技術やエラー訂正技術を駆使することで、量子コンピューターの精度を向上させる取り組みが進められています。また、ハイパフォーマンスコンピューター(HPC)を活用することで、現在のエラーがある量子コンピューターでも量子優位性を達成できると考えられています。HPCとの融合により、量子コンピューターの計算能力を補完し、実用的な問題解決に向けた新たな可能性が広がります。

さらに、2029年に提供される予定の誤り耐性型量子コンピューター(FTQC)は、エラーのない計算を実現し、HPCの活用と共に、幅広いアプリケーションが期待されています。

ロードマップと技術革新 

IBMは、量子コンピューターの開発に関するロードマップを公開しています(図1)。このロードマップは、2024年に更新され、2025年にも計画を前倒しする形で更新されました。最新版では、量子コンピューターとHPCとの融合、そしてFTQCに向けての明確な道筋が示されています。

 

図1. 2025 IBM Quantum Roadmap  

現在提供されているHeron R2は、156量子ビットを搭載しており、エラー率も2量子ビットゲートで0.1%に向かっています。このプロセッサーは、量子計算の精度と信頼性を大幅に向上させる技術革新を実現しており、最大 5,000 回の2量子ビットゲートを、 エラー率を一定以下に保ちながら実行できる性能を備えています。さらに、2025年中に利用可能になるNighthawk は、2量子ビットゲートの自由度を大幅に向上させ、IBMの量子コンピューティング戦略において、FTQCを実現するための重要な次世代プロセッサーとなる予定です。

Qiskit [1][2]は、ユーザーが量子コンピューターを活用してアプリケーションを開発する上で中心的な役割を果たしています。量子コンピューターは、ユーザーから量子回路を受け取り、それを実行することで、量子アルゴリズムの計算を担います。Qiskitは、量子回路の作成、最適化、量子コンピューターへの実行依頼、そしてその後処理までを一貫してサポートするSDK(ソフトウェア開発キット)として設計されており、量子コンピューティングに必要な一連の作業を包括的に支援します。さらに、Qiskit Addonを利用することで、最新の研究成果をアプリケーションに迅速に取り込むことが可能となり、Qiskit Functionを通じて、さまざまなサードベンダーのツールやサービスとの連携も容易になります。

2024年のUnitary Fund Quantum Open Source Software Survey  [3]では、Qiskitは最も広く利用されているフルスタック量子開発プラットフォームの一つとして位置づけられました(図2)。1100人以上のグローバルな回答者からのデータに基づき、Qiskitはユーザー体験、開発ツールの充実度、コミュニティ の活発さにおいて高い評価を受けています。この調査は、量子オープンソース・ソフトウェアの現状を把握し、今後のエコシステムの発展に向けた指針を提供するものであり、Qiskitの進化とその影響力を改めて示す結果となりました。

 

図2.Full-stack development platforms and simulators: year comparison (Unitary Foundation 2024)
Source: Unitary Fund 2024 Quantum Open Source Software Survey  
(出典元の図を参考にIBMにて作図) 

このように、Qiskitは単なる開発ツールにとどまらず、量子コンピューティングの研究・教育・産業応用を支えるエコシステムの中核として進化を続けています。IBMの量子コンピューターのロードマップは、量子コンピューティングの未来を見据えた詳細な計画を示しており、今後の技術進歩に期待が高まります。

量子とHPCの融合によるハイブリッド・アプリケーションの可能性

量子コンピューターは急速に進化しているとはいえ、現実の複雑な問題を解決するには、より深い量子回路の実行や、より多くの量子ビットの活用が必要です。しかし、現在の量子ハードウェアは、量子ビット数やエラー耐性の面でまだ制約があり、単独での実用化には限界があります(図3)。
 

図3. 量子コンピューターの進化と問題領域
Source: Assessing the Benefits and Risks of Quantum Computers(https://arxiv.org/abs/2401.16317)
Quantum algorithms : A survey of applications and end-to-end complexities(https://arxiv.org/abs/2310.03011) 
(出典元の図を参考にIBMにて作図) 

そこで注目されているのが、HPCと量子コンピューターを組み合わせたハイブリッド・アプリケーションのアプローチです。HPCの強力な古典計算能力を活用しつつ、量子コンピューターが得意とする部分的な計算を担わせることで、現実的な問題解決を可能にする道が開かれています。

その代表的な事例が、2024年に行われたスーパーコンピューター「富岳(Fugaku)」とIBMの量子プロセッサー「Heron」(図4) の連携です。理化学研究所とコロラド大学と共同で行われたこの研究では、Sample-based Quantum Diagonalization(SQD)という手法を用いて、鉄硫黄錯体(Fe2S2、Fe4S4 、鉄(Fe) 原子と硫黄(S)原子が特定の立体構造で結合した化合物で、主に生体内の酵素や電子伝達系に存在する重要な分子)のスピン軌道相互作用に関するエネルギー値の予測を行いました。

この問題は、FTQCを用いた場合でも、約453万量子ビットを13年間使用する必要があり、変分量子固有値ソルバー(Variational Quantum Eigensolver,  VQE)を用いた場合でも約300年かかるとされていました。しかし、FugakuとHeronのハイブリッド実行により、わずか2時間で同等の計算結果を得ることに成功しました。これは、量子と古典の協調によって、現実的な時間内に高度な科学的問題を解決できることを示す画期的な成果です。
 

図4. IBM Quantum Heron プロセッサー 

さらに2025年には、この研究が大きく進展しました。まず、量子ビットの安定性とゲート精度が向上したHeron R2プロセッサーが使用されました。加えて、量子計算とHPCによる古典計算を繰り返し連携させることで、より高精度な分子シミュレーションが可能な量子回路を構築し、従来よりも正確なエネルギー値の予測に成功しました(図5)。
 

図5. FugakuとHeron用いたSQDによる分子シミュレーション結果(Fe4S4)

Source : Shirakawa, Tomonori, et al. "Closed-loop calculations of electronic structure on a quantum processor and a classical supercomputer at full scale." arXiv preprint arXiv:2511.00224 (2025).
(出典元の図を参考にIBMにて作図) 


また、2025年の成果として特筆すべきは、量子とHPCの計算資源を最大限に活用するための新たな手法が利用されています。この手法では、量子計算と古典計算の連携を工夫することで、それぞれの計算効率と精度の両立を実現するもので、今後のハイブリッド・アプリケーションの基盤技術の1つとして期待されています。

さらに、IBMは2025年に新たな量子プロセッサー「Nighthawk」の導入を発表しました。Nighthawkは、120量子ビットの高接続性を持つモジュラー型プロセッサーで、最大5,000ゲートの量子回路を安定して実行可能です。これにより、より複雑な量子アルゴリズムの実行が可能となり、量子優位性の実証に向けた重要なステップと位置づけられています。 

また、古典計算側でも、GPUを活用したHPCの進化が著しく、量子計算との連携において重要な役割を果たすことが期待されます。特に、エラー緩和や量子回路の後処理、最適化アルゴリズムの実行において、GPUの並列処理能力が大きな効果を発揮しており、量子・古典の協調計算の効率化に貢献していくでしょう。これらの進化したHPCの機能は、QiskitのHPC Addonとして、多くのユーザーに簡単に利用できるように、提供されていくことになります。

このように、Nighthawkの登場とGPUベースの古典計算の進化は、量子コンピューティングの実用化に向けたハイブリッド・ アプローチの可能性をさらに広げるものであり、今後の科学技術の発展において極めて重要な要素となるでしょう。

誤り耐性型量子コンピューターへの道筋

IBMは、誤り耐性型量子コンピューター(FTQC)の実現に向けて、明確かつ段階的な戦略を打ち出しています。2025年のAPS Global Physics Summitにおいて、IBM QuantumのリーダーであるJay Gambettaは、FTQCに至るまでの技術的・構造的なロードマップを発表しました。

この戦略の中核には、以下の3つの柱があります。

  1. モジュール型アーキテクチャの採用
    IBMは、FTQCの実現に向けて、スケーラブルなモジュール型量子プロセッサーの開発を進めています。これは、複数の量子チップを相互接続し、1つの大規模な論理量子コンピューターとして機能させる構成です。各モジュールは、論理量子ビットを構成するための物理量子ビットを内包し、誤り訂正をリアルタイムで行う能力を持ちます。
  2. LDPCコードによる誤り訂正の実装<
    FTQCの鍵となるのが、量子誤り訂正(Quantum Error Correction, QEC) の実装です。IBMは、一般的なSurface Codeではなく、Low-Density Parity-Check(LDPC)コードを提案しています。LDPCコードは、より少ない冗長性で高い訂正能力を持ち、スケーラブルな量子誤り訂正に適しています。2025年時点では、LDPCを用いた論理量子ビットの安定動作に向けた成果が報告されており、今後は複数の論理ビットを用いた量子アルゴリズムの実行を目標としています。
  3. ソフトウェアと制御技術の進化
    FTQCを支えるには、ハードウェアだけでなく、量子制御ソフトウェアやミドルウェアの高度化も不可欠です。IBMはQiskitを中心としたソフトウェアスタックを拡張し、論理ビットベースのプログラミングや、誤り訂正を意識した回路設計を可能にする機能を開発しています。
    量子プロセッサーの制御には、古典コンピューターが用いられています。FTQCを実現するためには、量子プロセッサーの制御にリアルタイムでのフィードバックやエラー検出が求められるため、量子コンピューターを制御する古典コンピューターの進化も進められています。

FTQCの実現によって、より複雑で深い量子回路を正確に実行できるようになることが期待されており、これまで困難だった多くのユースケースが現実のものとなります。創薬、材料設計、金融最適化、気候モデリングなど、さまざまな産業分野での応用が見込まれ、量子コンピューティングの社会的インパクトは飛躍的に拡大するでしょう。

一方で、FTQCが実現しても、量子計算におけるエラーが完全にゼロになるわけではありません。そのため、現在行われているHPCの活用や、エラー緩和技術 は、引き続き重要な役割を果たすことになります。特に、GPUを活用した古典計算の進化は、量子誤り訂正の補助や量子回路の後処理において不可欠であり、量子・古典の協調計算の効率化に貢献しています。

現在の技術革新の延長線上には、FTQCを活用した爆発的な量子コンピューティングの展開が見込まれており、量子技術は今後の科学・産業の基盤技術として、ますます重要性を増していくと考えられます。

エコシステムの構築とIBMが描く未来 

量子コンピューターの実用化に向けては、技術開発だけでなく、産業界・学術界・政府機関など多様なステークホルダーとの連携が不可欠です。IBMは、こうした多様な主体を巻き込んだ量子エコシステムの構築を積極的に推進しており、その中心的な役割を果たしています。

その一環として、IBMは、製薬、化学、金融、材料、エネルギー、輸送などの分野において、量子技術の応用可能性を探るWorking Group(WG)活動を支援しています。これらのWGは、同じ課題意識を持つユーザー同士が自発的に集まり、共同研究や共同開発を行う場であり、IBMはその活動を技術面・運営面でサポートしています。WGでは、実際のユースケースに基づいたプロトタイプの構築が進められており、量子コンピューターがもたらす価値を、より具体的かつ実践的に検証することが可能となっています。

また、IBMはQiskitを中心としたオープンソースのソフトウェア基盤を提供することで、研究者や開発者が量子技術にアクセスしやすい環境を整備しています。さらに、Qiskit AddonやQiskit Functionといった拡張機能を通じて、最新の研究成果や外部ツールとの連携も可能となり、エコシステム全体の発展を加速させています。
このような取り組みは、単なる技術提供にとどまらず、量子技術を社会実装するための共創の場を形成するものです。IBMは、量子コンピューターの将来像を描くだけでなく、その実現に向けた道筋を具体的に示し、業界全体を牽引する存在としての地位を確立しています。

今後、FTQCの実現が視野に入る中で、IBMが構築するこのエコシステムは、量子技術の社会的インパクトを最大化するための基盤となるでしょう。量子とHPCの融合、ソフトウェアとハードウェアの協調、そして産業界との連携を通じて、IBMは量子コンピューティングの未来を率先して切り拓いていきます。

 

 

 
参考文献 
[1] A. Javadi-Abhari et al. “Quantum computing with Qiskit,” arXiv preprint arXiv:2405.08810 (2024), https://arxiv.org/abs/2405.08810
[2] Robledo-Moreno, Javier, et al. "Chemistry beyond the scale of exact diagonalization on a quantum-centric supercomputer." Science Advances 11.25 (2025): eadu9991,https://arxiv.org/abs/2405.05068
[3] Unitary Fund Quantum Open Source Software Survey(2024), https://unitary.foundation/posts/2024_surveyresults/  

 

 

 

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