2016年5月4日、IBM Quantum Experienceが公開され、IBM Cloudを通じて量子コンピューターを世界の誰もが使えるようになりました[1]。5年の時を経た今日、量子コンピューターは、テクノロジー系のメディアだけでなく、一般の新聞・雑誌でもしばしば取り上げられ、書店では量子コンピューターの解説本が本棚の一角を占有しており、その存在感が増していることを実感します。
といっても、まだまだ黎明期であり、今私たちが使っているコンピューター(量子コンピューターに対し古典コンピューターといいます)での不可能が可能になっているわけではありません。IBMは、実用的なアプリケーションにおける古典コンピューターの不可能が量子コンピューターで可能になるときを「量子アドバンテージ」と呼び、世界の有力企業、学術団体とエコシステムを組み様々な観点から追究しています。
本稿では、「量子アドバンテージ」に向かって世界をリードしているIBMの最新の取り組みについて紹介します。なお、2017年9月発刊のProVISION 92号では早くも量子コンピューターを取り上げています。量子コンピューターとは、などの基本的なところについてはそちらの記事[2]を参照ください。
ロードマップ、ついに公開。2023年に1000量子ビットを超える
まず、ハードウェアの状況です。量子コンピューターの発表から4年、2020年9月15日に量子プロセッサーのロードマップが公表されました [3]。それによると、2021年は127量子ビットのEagleプロセッサー、2022年には433量子ビットのOspreyプロセッサー、そして2023年には1000を超える1121量子ビットのCondorプロセッサーがリリースされることになっています。さらにその先は100万量子ビット越えを目指しており、そのために巨大な希釈冷凍機の設計開発がすでに始まっていることも明らかになりました。
図1. 量子プロセッサー・ロードマップ
図2. 100万量子ビットを目指して開発中の巨大希釈冷凍機
ロードマップの公表は、研究開発を通じて量子コンピューターの安定稼働に必要なさまざまな技術の方向性に一定の目処がついたことの現れといえるでしょう。たとえば、2018年から2019年にかけて、いろいろなトポロジーの20量子ビットのマシンが登場しました。図にあるように、同じ20量子ビットながら、Austin機では密な接続がみられ、Poughkeepsie機やJohannesburg機では疎な接続になっています。密ならば、コンパイラーの出力する量子回路は一般に短くなり実行は速くなりますが、クロストークが発生しやすくなります。疎ならば、クロストークは抑制できますが、コンパイラーの出力する回路は長くなり実行は遅くなります。
図3. IBM量子コンピュータの進化 2016-2019
絶妙なバランスを取る必要がありますが、ひとつの結論を2019年10月に登場したHummingbird R1プロセッサー搭載のRochester機に見ることができます。同一のブロックが6個配置されています。これが重6角形格子(heavy hexagon lattice)と呼ばれるトポロジーです。さらに、このトポロジーで効率のよい誤り訂正アルゴリズムが構成できることが示されたこと[4]も決め手となったようです。実際、2020年にはFalcon R4プロセッサー搭載の27量子ビット機が何台かリリースされましたが、重6角形格子のトポロジーになっており、2023年にリリース予定の1121量子ビットのCondorプロセッサも重6角形格子になるといわれています。
ハードウェアの進化と連携しソフトウェアも発展を続ける
次にソフトウェアの状況について紹介します。こちらは2021年2月14日にロードマップが発表されました[5]。ひとことでいえばオープンソースの開発環境Qiskit(Quantum Information Science Kit)を、ハードウェアの進化と連携しつつ発展させていくというもので、カーネル開発者、アルゴリズム開発者、モデル開発者の3つのタイプのユーザーを念頭においています。
図4. ソフトウェアロードマップ
ハードウェアに近いところから順に説明しましょう。カーネル開発者は、パルス・プログラミングなどを行う人たちで、基本ゲートの性能を向上させたり、新しいゲートを作成したり、あるいは、ハードウェアの性能をフル活用するような回路ライブラリを構築する役割を持ちます。
アルゴリズム開発者は、2022年までのソフトウェア・スタックでは、回路ライブラリーを用いてアプリケーション・モジュールを作成する人たちを指し、自然科学(量子化学や物理など)、機械学習、最適化、金融といった分野のための量子アルゴリズムを構築します。つまり、アプリケーションの作成と量子アルゴリズムの開発とが渾然となっています。
2023年以降にはこの状況が変わります。量子アルゴリズム層がいわばミドルウェア化し、アルゴリズム開発者はこのミドルウェアの構築、特にそれが動作するハードウェアに高度に最適化されたミドルウェアの構築に専念することになります。量子アプリケーションはこのミドルウェアの上で動作することとなり、モデル開発者が量子アプリケーションの構築を担当することになります。
図のなかにあるコンポーネントをいくつか見ていきましょう。2021年に予定されているQiskit runtimeは、量子古典ハイブリッド・アルゴリズムの実行時間を100倍以上高速化しようというものです。現在は、量子アルゴリズムの部分はクラウドの向こう側にある量子コンピューターで、古典アルゴリズムの部分はユーザーの手元にある古典コンピューターで動かしますが、変分固有値法のように量子部分と古典部分の往来が頻繁になると時間がかかってしまいます。新登場のQiskit runtimeは古典アルゴリズムの部分もクラウドの向こう側に投げて動かすことにより大幅な高速化を実現しようというものです。
実機で動かす場合、現在は回路の最終盤にしか測定ゲートを配置できませんが、2022年に登場予定のDynamic circuitsにより、回路の途中にも測定ゲートを配置できるようになります。測定結果により実行される回路を変えることが可能になるわけです。量子テレポーテーションや反復位相推定を実機で動かすことができるようになり、実機で実行できるアルゴリズムの幅が広がります。さらに、エラー訂正回路の実機での実験も可能になり、この方面の研究が加速することが期待されます。
2025年以降に登場するのが「Prebuilt quantum + HPC runtimes」です。IBMは未来の計算(Future of Computing)について、BitsとNeuronsとQubitsの融合というビジョンを掲げています。Bitsとは「数学と情報」に起源をもつ現在のコンピュータであり、Neuronsとは「生物学と情報」から誕生したAIアクセラレータのことです。現在のHPC (High Performance Computing) runtimesはこの2つから成っているといってよいでしょう。そして、Qubitsは「物理学と情報」から現出した量子コンピュータに他なりません。「Prebuilt quantum + HPC runtimes」とは、まさに、このビジョンの実現を担うものになるはずです。
いよいよ実機がやってくる
2019年12月19日に、東京大学とIBMは「Japan IBM Quantum Partnership」の設立に向け検討を開始することを発表しました[6]。その目的は、「日本の量子コンピューティング・コミュニティを拡大するとともに、新たな経済的機会を育成すること」にあります。そして、IBMの量子コンピューターを日本国内のIBM拠点に設置する予定であることが表明されました。
2020年7月30日には、上記Partnershipに基づき、東京大学とIBMが量子イノベーションイニシアティブ協議会(QII協議会)設立に向け連携することが発表されました[7] 。QII協議会は東京大学を拠点とし、慶應義塾大学、東芝、日立製作所、みずほフィナンシャルグループ、三菱UFJフィナンシャル・グループ、JSR、DIC、トヨタ自動車、三菱ケミカル、日本IBMの10団体が参画の検討を開始することを表明しました。そして実際、2021年1月27日には、上記団体に、ソニー、三井住友信託銀行、横河電機、の3社も加わり、総会が開かれ協議会が設立されました。日本にやってくる実機を活用するのはこのQII協議会のメンバーたちということになります。
そして、2021年3月23日に、実機の設置場所が「新川崎・創造のもり かわさき新産業創造センター」 となったことが発表されました[8]。センターにはIBM東京基礎研究所のサイエンス&テクノロジー・グループの拠点があります。実機の稼働は年内を予定しています。
スーパー・コンピューターがテニスコート一面にノード群を展開し空調の轟音の中で棲息しているのに対し、量子コンピューターはリビング・ルームほどの部屋に設置され静音の中で生息しています。ただ、パルス管冷凍機から発せられる「シュンシュンシュン」という音が聞こえるだけです。それは、規則的で、金属的で、そしてどこか未来的です。まるで、未来からやってきた生命体の鼓動のようです。「創造のもり」で実機が動き出したとき、私たちはいわば心臓を手に入れたことになるのかもしれません。その心臓から送り出されるイノベーションの血液がQII協議会を循環し始めたとき、量子アドバンテージへの天窓が開け放たれるにちがいありません。
[参考文献]
[1] IBM: IBM Makes Quantum Computing Available on IBM Cloud to Accelerate Innovation, http://www-03.ibm.com/press/us/en/pressrelease/49661.wss
[2] ルディー・レイモンド, 今道 貴司: 最先端の量子コンピューター「IBM Q」 − 従来のコンピューターの限界を超えた計算能力で新たな時代を切り拓く, ProVISON, No.92 (2017)
[3] IBM; IBM’s Roadmap For Scaling Quantum Technology, https://www.ibm.com/blogs/research/2020/09/ibm-quantum-roadmap/
[4] IBM Research: Hardware-aware approach for fault-tolerant quantum computation, https://www.ibm.com/blogs/research/2020/09/hardware-aware-quantum/
[5] IBM: IBM’s roadmap for building an open quantum software ecosystem, https://www.ibm.com/blogs/research/2021/02/quantum-development-roadmap/
[6]日本IBM: 東京大学とIBM、「Japan–IBM Quantum Partnership」の設立に向け検討を開始, https://www-03.ibm.com/press/jp/ja/pressrelease/55682.wss
[7]日本IBM: IBMと東京大学、量子イノベーションイニシアティブ協議会設立に向け連携 日本の量子研究開発のリーダーシップを加速し、日本の新たな量子ビジネスを創出, https://jp.newsroom.ibm.com/2020-07-30-ibm-university-of-tokyo-quantum-innovation-initiative-council-establishment-for-cooperation
[8] 日本IBM: 量子コンピューター「IBM Quantum System One」の設置を「新川崎・創造のもり かわさき新産業創造センター」に決定, https://jp.newsroom.ibm.com/2021-03-23-Shinkawasaki-Creation-Forest-Kawasaki-New-Industry-Creation-Center
日本アイ・ビー・エム株式会社
東京基礎研究所
副所長 技術理事
小野寺民也
Tamiya Onodera
1988年東京大学大学院理学系研究科情報科学専門課程博士課程修了。理学博士。同年日本アイ・ビー・エム(株)入社。以来、同社東京基礎研究所にて、基盤ソフトウェア等の研究開発に従事。現在、同研究所副所長、量子コンピューティング担当部長、同社技術理事。 情報処理学会長期戦略担当理事、同量子ソフトウェア研究会幹事、ACM (Association of Computing Machinery) Distinguished Scientist、日本ソフトウェア科学会フェロー、量子ICTフォーラム量子コンピュータ技術推進委員会副委員長
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